難儀と二人連れの信心




昭和五十四年二月二十日 朝の御理解


御理解 第二十六節 「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れが要れば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」


 天地の道理をわからせてもらい、神様の願い、神様をわからせてもらい、神愛を悟らせて頂いて日々の信心生活、それがそのまま「日に日に生きるが信心なり」という事だと思うですね。
 天地の大恩も知らず、神愛、神願は尚更わからず、そういう言うならば忘恩の生活とでも申しましょうか。そうした、神の実在をも信じきれずに生活をしておる。それは私は、信心じゃないと思うですね。
 「日に日に生きるが信心なり」と。そういう天地の道理をわからせてもらい、悟らせてもろうての生活こそが「日に日に生きるが信心なり」と。ここのところはいろいろと説かれますけれども、今日はそのようなふうに一つ聞いて頂きたい。
 そこで、日に日に生々きとして朝のお参りが出来るね、神様への言うならば報恩の生活を日々させて頂いておる。思えば思うほどこのような有り難いことはない。このような尊い生き方はない。その有り難い、尊い生き方を知らんで生活をしておる人達に、どうでもその事をわかってもらいたい。そういう願いからいわゆる合楽示現活動に参画する。せずにおれないという事になるのではないでしょうか。もしそれが感じられないとするならば、まあだ天地の大恩もわかっとらん、天地の道理がわかっていない。そして例えばそこまではわかったと致しましても、その信心をふり返ってみる時に、何がここまで私を導いて来てくれたかと。成程信心に連れはいらん、けれどもそこにはね、何が道連れであったかと。
 信心に連れはいらないけれども、思うてみると私共が感じる心配・悩み・いわゆる難儀、難儀そのものがいつもいつも連れのうて下さったおかげで、今日までこれだけの事がわかり、日に日に生きるが信心なりと言う生き方を、いよいよ求めておるんだとわかるですね。成程、「楽しさと心配と」とか。その「楽しさと心配と」これがね、私共の道連れであって、今日までの信心が例えば続いたと言う事になるのじゃないでしょうかね。
 昨日、佐田さんところの長女の典子さんが頂いたと、若先生がお話ししておりましたが「親先生の日々の御理解は、神様が下さるそれぞれへの台本だ」とね。例えば演劇をやります。それにはいろいろ台本が出来ます。自分の言わなければならないところ、自分がこういう演技をしなきゃならないところが、その台本には事細かに書いてある。特にセリフなんかはね、忘れたら相手の方までがお芝居が出来なくなるね。だから本当言うたら日々の御理解を日々いわばマスターするという事だと思うですね。そしてここは、と思うところは、自分のセリフであるここを忘れてはならない。ここを頂き続けなければ、私はそれを頂いてから本当にそうだと思うのです。
 私共、日々三時の研修を修行生一同で致しますけれども、それぞれのそのまとめというものは、やはりそれぞれの信心によってここを感じた、その感じたところはもう、言うなら自分の血肉にして行かなければ、いよいよの時にそのセリフが出てくるという位にです、なら役者が自分の台本をもらってそのセリフを言うならばマスターする程しに、言わば熱心に教えの行者になり切らなきゃいけん。またそれが楽しいんだという事になってくる時に、私は信心は素晴らしい事になってくると思うのです。いわゆる実験ですから必ずここに次の実証が生まれて来ると思うのですね。
 これもその時若先生が申しておりましたが、これは誰から頂いたか知らんですけれども、「成行きはそのまま神のお知らせ」と頂いたそうです。私はそれを聞いてから、もうそうどこじゃないと思うんです。だから信心をさして頂いて何を分かるかと言うと、そういう絶対のものが絶対として頂けれることなんです。成り行きが私共、神様のお知らせなんて頂いた事がないという人がおりますけれども、成り行きそのままが神様のお知らせなんだ、そのお知らせを頂こうとはせずに、そのお知らせは横にやって自分の願いだけが成就するようにとこう言うような願い方ではやはり互い違いという事になるんだと思うんですよね。「日に日に生きるが信心なり」と言う。私は日に日に生きるが信心だと分からせて頂くところまでおかげを頂かなければいけない。

 私はこの祈願詞を毎朝唱えておられる時に思うんですけれども、本当この祈願詞は素晴らしい、いわば金光教的な願いの言葉だと思うんですけども、そして金光教の信心すりゃ、これにあるこれの通りのおかげをうけなければおかしいんです。おかげが受けられないならばどこか違っておるところがあると悟らせて頂かなきゃならんね。
 「天地の間のもの皆は生かされて生きてあり」ということがわからなきゃいけない。
 「その道理を知らずして迷い苦しむ人々の」だから迷い苦しむという事は、そこんところの根本のところがわかってないからだ。
 「難儀を助け給わんと生神金光大神様を差し向け給いし神御心こそ尊けれ」だからここんところのですね、難儀を助け給わんとして金光大神の御出現となったのであり、しかもその金光大神御出現がその生かされて生きてあるということ。

 自分が生きておるのじゃない生かされて生きてあるんだという道理を分からせて頂いてそこからね、例えばお腹が痛かっても頭が痛かってもお生かしのおかげを頂いておるしるしとしてお礼が申し上げれるようないわば信心ができる。道理が分かる、天地の大恩が分かるという事はそういうこと。そこがわかればです、ここにある「悩み苦しむ人々」と言う、悩み、苦しみというのがなくならなければならない。その悩み、苦しみがあるということは、まだまだそこんところの根本的な、教祖様が御出現になった言うならば尊い事が尊い事にならないね。
 それをなら事細かにみ教え下さって、いろんないうなら道理をことわけくださってあるのがこの御理解なんです。その教典がなかなか難しい。見易いと言やぁ見易い、難しいと言へば難しいというように、おかしいですけども確かにそんな感じです。字づらのところだけでは見易いごたるけれども、その内容たるやもう大変な深いものであり広いものである。そこを言うならば探求させて頂いておるのが合楽ではなかろうかと言うふうにおもいます。
 日々の御理解が一人一人の上に頂かなければならない。人間がどうでもここんところを頂いて、悩み苦しむではなくてその反対のね、喜びに満ち溢れた生活をさしてもらうおかげを頂くためのいうなら台本である。それを体得せず、それを実行せずしては日に日に生きるが信心という事にはならないということね。それでもなら私達の場合ね、不安がある、心配がある。勿論信心の無かった時分に悩んだり心配しておったのは、もうそれこそ嘘のように、かき消えるごとおかげを頂いてきた。けれどもやはり日に日に生きていくという上にはです、言うならば、垢も汚れも出来るだろう。そこのところが心配であり悩みである。それこそ人には言葉に出しては言えないようなお粗末、御無礼やらもあるわけです。そういうものがたまりたまって、不安になったり心配になったりする。これは私共が生きておる限りです、それを感じることであろう。いわゆる楽しさも有り難さもあるのだけれども、その不安も又心配もある。
 昨日、吉井の熊谷さんがここにお届けに見えて、いつもの有り難いお礼お届けだけして帰られた。そしてまた出て来られた。実は昨夜お夢の中で、こうこうと言うお届けであった。それこそ人間は誰しもお粗末御無礼がある。その事のお詫びを夢の中で一生懸命しておられたと言うお届けがあった時に、あら私は昨夜は丁度月例祭が終わって休ませて頂いたのが十二時じゃった。あなたの事を頂いた。戎浦美枝先生がお取次をして私のところへ、その熊谷さんがこうこうと言うお詫びのお届けがあった。美枝先生の場合は昨日が、一昨日が正奉仕でしたからだろうと思うんです。熊谷さんの夕べはお夢を頂いたと昨日言おうと思ったけれども、その関して何にも言われんもんですから申しませんでしたけれども、二度目にまたお届に見えてそれを言われるから「一寸熊谷さん待ってなさらんの、私は枕元に小引出しにいつもメモするものを用意しているんです。それで何か特別なおしらせやら頂いた時には、忘れんように一寸メモしておくのです。昨日のはあまりにもはっきりと頂いておりましたから、そしてその模様もずっと書いたものを取りにやって、熊谷さんに昨日こう言う事じゃったと言うてお話しした事でした。
 皆さん、例えばね言葉に出してお詫びが出来ないのは心の中でお詫びをする。それこそ神様が夢の中ででもお詫びをさせて下さって、その夢の中のお詫びですらも神様が受けてくださるという事がわかるですね。その詫びなければならない事は、いくらどんなに立派な信心をさせて頂いておると言うても、これは生きておるしるしと言うてもよい位になら毎日お風呂に入っても、毎日こんなに垢が出来るだろうかと思うようにやっぱり垢があるでしょう ね。だからそれはもう当り前と言わずに、やはり詫びるところは詫びさせて頂いて次の新たな、いわゆる「日に日に生きるが信心なり」という事を実感できるようなおかげを頂くために、詫びて行かなきゃいけない。
 神様が「詫びれば許してやりたいのが親心」その許された、その心。それでいよいよ楽しいものに、有難いものに、言うならば取り組んでいく。確かに「信心に連れはいらん」 けれども神様が、人ではないけれどもその心配とか不安とか悩みとかと言うお連れのあったおかげで今日まで信心が続いておるというひとが、私は殆どではなかろうかと思います。してみるとその難様儀と、やっぱり様をつけなければおられない事になるのじゃないでしょうか。
 これはいつも熊谷さんがお話しされる時言われるようにです、もし則郎というのがご長男ですが高校ではもう折り紙を、東京のどこの大学へ行ってもこの人は絶対通ると言うふうに言われた人がね、三年でしたかね、もう続けて通らなかった。もしあの願い通りに一年で通っておったらおそらく私の今日の信心はありませんと言われるでしょうが。
 してみると「はぁまた落ちた、また落ちた、あ々恥ずかしいごとある」と言ったようなものがあったればこそ、言うならば今日まで何十年間と言うお日参りが続けられ、今日あれ程の言うなら信心の徳を受けて行かれておるのでございます。
 だから思うようにならなかった事、言うならば難儀そのものまたは心配そのものがです、または恥ずかしい思いをするそのものが、私を今日まで信心を導いてくれた。私の連れになってきてくれたと言う事になるのです。
 あれが願うてこれが頼んだ、一年ばかりしっかり参ったらあれもこれも成就したからと言うたら、おそらくもう信心はそれでおしまいになっておったかも知れんね。
 それこそ善導寺の原さんじゃないですけれども、この難儀がおかげを頂いたらもう朝参りはせんでよかごつなると言うふうに思うておったけれども、その思うておる間に次から次と楽しさも出来てくるが心配もいつもあるのであり不安もあるのである、ね。楽しさとその心配とが連れになってくれて今日のなら原さん一家の御信心があるのです。だからこれは誰にしてもそれが言えれる。

 信心には連れがいらん。けれども神様がつけて下さるところの連れ。これはいよいよ私共があの世にも持って行けこの世にも残しておける人間の最大の大切なもの。この世に何しに生きて生まれてきたか。この世に力を、言うなら光を頂くことのために私共はこの世に生を受けておるんだと言うことを、言うても人間平穏無事である難儀はないという人にはなかなか信心は出来ない。神様がね様々な難儀を連れにつけてくださる。

 ここの合楽教会の番地が五二六ですね。それを私は業が付録だと。五と言うことはめぐりと言うことでしょう。付録と言うことはつきものだという事、神様がつけて下さってあるんだ。だから信心が出来る。だから今まで分け入ることが出来なかった。神様のお心の奥の奥の方へ入って行くことが出来、そして信心一体と言われ思われるような境地を開かして頂くことを楽しみに信心させて頂く。もう生神様になったから心配はない、ということは絶対ないと私は思うです。自分が生神様になってみなきゃわからんけれども、やはり生神様は生神様としての心配が不安がおありになると思う。だからこれはもう限りない精進である。

 昨日、直方の加藤さんの奥さんがあ々して日々本当にお知らせ頂だかれますけどもね、「梯子段がある、ところがその天井が全然ない」ね。梯子段という事は一段一段登っていくということ。天井がないという事は天井知らず天井無しと言うこと、もう限りなくね。 例えば物価が高騰してまいりますと天井知らずに上がるとこう言うでしょう。私共の信心と言うのはそういう天井知らずの、言うならどこまでも登っても登ってもつきる事のない言うならば信心を、それが楽しうなり有難うなりね、それもまた後押しをするように、言うならば難儀であり、心配である。
 いわゆる「楽しさと心配と」と言うのが伴のうてくるので、いよいよ尊い有難いものに進んでいく。そこでお互いの信心がです、そういう都度に果たして信心が進んでおるかと、信心が豊かに大きくなって行っておるか、深さを加えて行っておるかと言うことを検討して行きませんとですね。もうこれでよい、という事は絶対にないです。

 今日私は、あ々惜しいなあこの人は信心をこの頃すっきりと何か割り切ったような生き方で行くから、本当何とかして信心が出来ないものだろうか、というふうに思わせて頂いたら「仁丹の広告」を頂いた。仁丹の看板を知っとんなさいますか、こうやってね。偉かつのごたる服を着てヒゲをこうやって生やして、あれはもう威張らせときゃよかと。神様はそういうふうに言うて下さるのです。だからこちらに意欲を無くしますとですね、もう神様としても仕方があんなさらんとですね。

 だから本当に人間の慢心ほど言わば恐ろしい事はありませんね。慢心が出らんですむのも、この心配または難儀のこの願わずにおれないこの事があるからおかげで、慢心せずに信心を一段一段それこそ天井しらずに登っていく、それがまたいよいよ楽しいものであり有難いものになってこなければいけない。そういう生き方をです、私は「日に日に生きるが信心」という力強い、言うならば生々としたそれこそ水が滴るような生き方ができるという事になるのじゃないでしょうかね。


                         「どうぞ」